名前の豆知識|家系図作成 33000円から ”先祖の歴史を後世に伝えたい”

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名前の豆知識

名前の始まり

現在、私たちが使っている氏名や姓名のもとは、氏(うじ)、姓(かばね)という氏族の呼び名からきています。
「氏」や「姓」は、4〜5世紀頃、大和朝廷の支配体制の基礎となったもので、血縁集団を支配する共同体の豪族を「氏」(うじ)、政治的な立場や世襲的な職業などに応じて称されたものが「姓」(かばね)と呼ばれました。
大和朝廷は、貴族や豪族に対して、政治的地位や貢献度に応じて「氏」(うじ)と「姓」(かばね)を与えていたのです。

平城宮跡満開の桜

1 姓(かばね)とは

姓(かばね)と姓(せい)の漢字は同じですが、意味が違います。古代の姓(かばね)は、大和朝廷が貴族や豪族に与えた称号のこと。特定の仕事を任ずることで各豪族を管理支配したもので、その種類は30種以上になります。
つまり、姓(かばね)とは朝廷との関係を示すものなのです。

姓(かばね)には次のようなものがあります。

臣(おみ) 主に大和地方の豪族に与えられたもので、最高の地位を占めた豪族。
連(むらじ) 大王(天皇)と先祖を別にする氏族に与えられ、王家に従属する官人としての立場にあり、大和政権の成立に重要な役割をはたした豪族。
伴造(とものみやつこ) 大和政権の各部司を分掌した豪族であり、連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。
百八十部(ももあまりやそのとも) 部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)などの姓(かばね)を称した。
県主(あがたぬし) 地方の小範囲の族長をさすもので、いずれも地名を氏の名とする。
国造(くにのみやつこ) 地方を治めていた豪族に与えられた姓。国造には、臣(おみ)、君(きみ)、直(あたい)も称した。

7世紀後半(684)、天武天皇により「八色の姓」(やくさのかばね)が制定され、つぎの8段階に統一されました。

第1順位 真人(まひと)
第2順位 朝臣(あそん)
第3順位 宿禰(すくね)
第4順位 忌寸(いみき)
第5順位 道師(みちのし)
第6順位 臣(おみ)
第7順位 連(むらじ)
第8順位 稲置(いなぎ)

それによってそれまでの最高順位であった「臣」「連」よりも高い位の姓を与え、それまでの上位に位置した臣(おみ)、連(むらじ)は序列の6番と7番となりました。天皇への忠誠心のある者には真人(まひと)、朝臣(あそん)などの上位の姓が与えられるようになりました。しかし、奈良時代を過ぎて平安時代になる頃には、ほとんどの姓が朝臣(あそん)になるなど形式的なものとなりながらも、明治維新までかろうじて命脈を保ちました。そして明治4年の「姓尸不称令」(せいしふしょうれい)が出されることにより、事実上古代以来の姓が廃止されることになるのです。

2 氏(うじ)とは

古代における氏(うじ)とは、祖先を同じくする親族集団のことで、氏族ともいいます。大和朝廷が形成されると、朝廷に仕える血縁集団として氏姓制度により支配階級の構成の単位となりました。
氏には、@地名に由来するもの、A朝廷への職務に由来するもの、B天皇から賜って命名されたものがありますが、次のように分けられます。

地名に由来 出雲氏(島根県)、曽我氏(奈良県曽我川流域)、吉備氏(岡山県)、葛城氏(奈良県葛城山周辺)、平群氏(奈良県平群町周辺)など
朝廷職務に由来 物部氏(軍事)、大伴氏(軍事)、中臣氏(神事・祭事)、阿曇氏(天皇の食事)、秦氏(財務)など
天皇命名 源氏、平氏、藤原氏、橘氏、豊臣氏

平安時代では、親族血縁集団を区別するための氏(うじ)とは別に、家族集団を区別するために名字を名乗るようになりました。
以後、明治時代に入って戸籍の制度ができるまでの間、氏(うじ)と姓(かばね)は、朝廷の公式文書において記す習わしでしたが、この壬申戸籍以降は伝統的な氏(うじ)、姓(かばね)は事実上表記することはなくなりました。
次に平安時代、氏とは別に家族集団を区別するために使われ始めた「名字」の歴史について説明します。

名字の歴史

1 平安時代

名字は、もとは武士の領地の地名でした。平安時代の終わりころ、関東の武士が初めて名字を名乗ったといわれています。平安時代末から鎌倉時代のはじめに武士が勢力を拡大しましたが、新興の武士が名字を名乗ったのです。
名字とは、土地の領主であることを示すためのもので、当時の武士が治めていた集落(領地)を「名」(みょう)とか「名田」(みょうでん)と呼んでいました。自分の領地を持たない身分の低い武士は、名字をもつ領主の家来となりました。

2 鎌倉時代

源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき、幕府は御家人すべてに名字と家紋を届けることを義務付け、名字を持つものと持たないものを区別しました。公家たちも名字による家や人の区別し、特定する合理性から名字を使うようになりました。

3 室町時代

名字の習慣は、庶民の間にまで広がります。これは、鎌倉時代に発達してきた農業によるところが大きく、それまで武士が支配していた領地で農業を営むために小作人を管理する豪農といわれる地主が出現しました。武士は領地を豪農に任せて農業を進めるために豪農に同じ名字を与えたのです。

4 江戸時代

「名字」は土地を支配する者が用いる名称であるため、幕府は、それにかわる「苗字」の表記を広めました。そのため江戸時代から明治時代にかけての法令には「苗字」の文字が使われています。
亨和元年(1801)に「苗字帯刀禁止令」が出され、苗字を名乗って帯刀することは武士の特権とされ、平民は公式の場で苗字を名乗ることが許されなくなりました。しかし、それは為政者による政治的支配の手段であり、庶民は以前から使用していた家の名字を、親から子へ、孫へとその子孫に伝えていたようです。いわゆる私称の名字は、寺の過去帳、寄進帳には農民の名字が記入されている例も多くあり、商人は屋号に使ったりしていました。

5 明治時代以降

明治政府は、明治3年(1871)に平民の名字の使用を許可し、最初の全国的な戸籍である壬申戸籍を作りました。前述のとおり、江戸時代、町人、農民は「苗字帯刀」は禁じられていましたが、彼らのほとんどは戦国時代から名字を名乗っていたため、その名字を戸籍として届け出ました。しかし名字をつけると税金が増えるという噂が広がり、明治5年(1872)の登録後の改名禁止や明治6年(1873)の徴兵令が発出されるなどにより、庶民の名字登録は順調に進みませんでした。
その後、明治8年(1875)に平民苗字必称義務令、明治31年(1898)に明治民法を公布し、これによりすべての日本人が家名としての名字を名乗ることになったのです。これにより氏姓と苗字が完全に分離及び廃止されて家名は1つの名字のみとなりました。

昔の名前

明治8年、明治政府は、「平民名字必称義務令」を布告し、すべての国民に名字を名乗ることを義務付けました。それにより、名字と名前に統一しました。いわゆる現在使っている「姓名」です。
しかし、明治以前の時代には、「名字」「通称」「氏」「姓」「諱」の五つを名前として使っていました。

紅葉

1 名字

荘園制度の頃、土地を所有した名主は自分の土地に名前を付けましたが、その土地を「名田」といいます。後に「名田」の名前を自分の「名字」にするようになったのです。

2 通称

当時は、地位である「姓」と家柄である「氏」を軽々しく口にするのは失礼であるとされていたため、気軽に呼べるように「通称」が使われるようになりました。

3 諱(いみな)

「諱」(いみな)とは実名のことです。昔は、主君が家臣を呼ぶのを除いて、実名で呼ぶのは失礼とされていたため、通称で呼んでいました。

4 氏(うじ)

祖先を同じくする親族血族集団で、源氏、平氏、藤原氏、橘氏が有名です。

5 姓(かばね)

朝廷との関係を表わすもので、「臣」(おみ)、「連」(むらじ)などです。

例えば
織田信長の正式名称は、
「織田弾正中平朝臣信長」(おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが)

豊臣秀吉は、
「羽柴藤吉郎豊臣朝臣秀吉」(はしばとうきちろうとよとみのあそんひでよし)

徳川家康は、
「徳川次郎三郎源朝臣家康」(とくがわじろうさぶろうみなもとのあそんいえやす)

という長い名前になるのです。

「徳川家康」を例にすると次のように構成されます。

徳川(とくがわ) 名字(みょうじ)―名田の名前を付けた一族の名前
次郎三郎(じろうさぶろう) 通称(つうしょう)―実名のかわりに一般的に使ったもの
源(みなもとの) 氏(うじ)―祖先を同じくする親族集団(源平藤橘など)
朝臣(あそん) 姓(かばね)―朝廷との関係や地位を表わす
家康(いえやす) 諱(いみな)―実名のこと(公式以外には使われなかった)

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